人間なんて、信じない。
 ――風だけを信じて、何が悪い?

 私は、どうせ風の巫女姫なんだ。








「嫌だ!」


 風生まれ出る山岳の小国――多くの詩人にそう詠われるスィスティレアの、珍しく雲の切れた冬の朝。 神々しく貴重な金色の陽光が、国中をすっかりと包み込んでしまった深い雪に降り注ぐ。
 風が生まれるとはよく言ったもので、大陸中でも一、二を争うほどに高い山の中腹に位置するこの国は、北風の壁、雪の雲の吹き溜まりなのだ。
 その切り立つ中に存在するのは、厳然とした黒御影の巨大な建築物。
 その光沢のある黒を彩る、翼を象った優美な徽章は、高貴で鮮やかな紫色。
 ……壮麗優美と名高い風の大神殿の奥深くに、そんな神聖な静謐を荒げる甲高い怒声が響いた。

「嫌だと言ったら、嫌だ! 絶対だっ! 何故にお前等の都合に、我が従わねばならぬのだっ!」

 口調こそ厳しい老婆のようだが、幼く高い声がただ徒に喚くことはただの屁理屈であり、我侭。
 怯えた子犬がするように声高に叫び続けるその少女は、特異な色をした大きな瞳を激情の涙で潤ませる。
 ――それは、いとも高雅なる薄紫。
 高級な紫水晶を陽に透かしたかのような、淡い紫色をした峻烈な閃きの瞳。
 それこそが少女の身分を明確に物語るからこそ、神殿を統括し民草の人望を集める有能な神官達ですら、彼女の扱いに困り、宥めすかすしかできないのだ。
「巫女姫様……どうか、お聞き入れ下さい。我々がいかにして貴方様に命令なんぞできましょうか。これは懇願です。縋る者を助けることが、聖なるものに仕える貴方様の使命でもあります。  どうか、朝の祭礼にお姿を拝見させてくださいませ」
 教育役をも務める老神官の言葉に、しかし少女は酷く苛立たしげに、激しく首を横に振る。
 さらさらと、その雪の白銀の髪が歌う。
 ゆらゆらと、思わず見蕩れるほどに美しく乱れる髪の合間の表情は、子供の表情には全く似つかわしくない……憎悪に近い感情で歪んでいた。

「絶対に嫌なんだ! お前等、今すぐ我からこの小賢しい枷を外せ! そして我の前から消え失せろっ!! 我はそれだけを望むのだ、だからそれが絶対なんだ!!」
 そのあまりにも理に叶わない命令に、――しかしその理不尽さにではなく別の理由で驚いたひとりの赤毛の若い神官は、思わず前方に立つ老神官の肩を叩く。
「ヴェルネート様、まさか!?」
 勢いに任せ大声を上げようとする無遠慮さを咎めるように、ヴェルネートは間髪を入れず若い神官の頭を引っ叩いた。
「……この世の誰が、巫女姫を鎖で繋ぐか阿呆。レイド、お前少しは頭を使えぬのか? 一体どんな鎖ならば、あの御方を繋いでおけると言うのだ」
 こちらの問いまで見透かした冷静な指摘に、レイドはあ、と間抜けな声を漏らすと、改めて巫女姫の細い手首に目を凝らした。
 無論、そこに鎖など見るべくもない。――否、過去には確かに繋いでいたが、ここ数ヶ月の間は悉く破壊され今では皆諦めたらしい。
 その代わりにぴたりとはまっているのは、彼女の肌の白さによく映える白金の腕輪。この遠目から見ても繊細な彫りをしていると解る装飾の中で、特に注目させられるのは、何と言っても、淡い黄金色の琥珀だろう。
 大粒のそれは、偶蹄目の動物の乳の油脂分を固めたもの――即ちバターを煮て飴にしたような、甘く焦がしたような魅惑的な輝きを放つ。
 だがレイドの気を惹きつけたのはその美しさではない。
「琥珀……は、……樹気と地気の象徴の宝玉、でしたよね……?」
 ようやく事情を解して愕然とした表情を見せる彼に、ヴェルネートは重い嘆息を吐き出した。
「お前はまだ修行が足りぬか、やれ……哀しきことよ。 何故にその琥珀が巫女姫様の腕にはまっているか、考えても見れ」
 その言葉に応えるかのように、巫女姫と称される少女は、一層激しく暴れようと手を振り上げる。しかしすぐに声にならない悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。
 肩で激しい呼吸をする少女の様子に、知らずレイドは眉を顰めてしまう。
「ヴェルネート様……これは、あんまりでは……? それは、風巫女様は暴れますが、……未だ御歳十と二つですよ? 他元素で封じてしまうなんて……」
「――仕方があるまい」
 対して、力なく床に伏す少女を苦々しげな目で見つつ、ヴェルネートはもう殆ど癖らしい仕草でこめかみを押さえる。
 そして己に言い聞かせるように、或いは何者かに言い訳するように、再び言葉を重ねた。

「仕方があるまい。これ以外に、風巫女様を縛する方法はありはしないのだ」



 “他元素で封じるしか、風巫女を押さえつける方法などない”――
 それは確かな真理だ。
 ここは風神祀る神殿であり、人を寄せ付けまいとばかりに暴れる少女は、誰もが認める不本意さながらも……この神殿の象徴。
 その小さな体躯に宿す魔力も確かなもので、間違えようもなく風の力であるのだ。
 肩書きを、風巫女(かぜのみこ)。
 名を、オーリア・ジエル。
 俗に呼ばれる、“風との唯一絶対の対等盟約者”。
 言葉の示す通りの意味のままに、この世界で唯一、何かと引き換えではなく、契約ですらなく、風の力を“信託”のみで完璧に扱う者だ。
 無論風の神殿に仕える神官や巫女達も得手は風の力だが、彼らが――風巫女の罵り文句曰く――「ご機嫌伺い」で風に力を「貸してもらっている」のとは、はなから格が違う。
 そんな力を持ちながら無茶苦茶に暴れるオーリアを凌駕し抑制し得るものは、本来の理論上は、全ての風を“支配”する風神の命令しかない。
 つまり通常ならば、彼女を他の力により抑え付けることなど土台無理なのだが、強いてあともう一つ挙げられるとするならば――対を成す魔術元素が、その役割に相当することができる。
 その茶金に樹気と地気を強く込めた鉱石……琥珀を用いてオーリアの暴走を抑制したのは、苦肉の策ながら理に叶った有効なものといわざるを得ない。
 魔術は、理論だ。 つまり理論に叶えば成功するのが魔法だ。
 風巫女の力の抑制が成功している以上、この手段は有効なのだ。
(有効……であっては、ならないんだけれども……)
 老神官の背中越しに風巫女の様を見るレイドは、周囲の咎めるような視線を感じつつも再び、顔を顰めた。

 ――巫女は全ての理を凌駕した頂点に立たねばならない。 本来そういう存在である筈だ。
(幼い故であれば、いいんだが)
 込み上げる忸怩とした思いに、無駄と知りつつも密かにレイドは額を押さえた。
 こんなでは、世界の安寧は愚か、風の国の民草ですら守れないかも知れない。 そんな状況は、いかな楽観主義な者とて断りだ。


 哀れむべきことに。
 そんな少女が世界の均衡を保つ要であり。
 こんな騒ぎがこの風の大神殿の、毎朝の祭礼前のことなのである。







「リューシャ、お前、酷いとは思わないかっ!?」

 そうして風巫女が決まって「立て篭もる」一角……この神殿で最も神聖であるとされる祭壇の間には、既に瀟洒な机と椅子が、無論のことながら風巫女の一存で運び込まれている。
 公にはならないが、それも当たり前の日常だ。
「そうは仰られても、ねぇ……」
 ちゃっかりとその椅子の一つに乗った少女の向かいに強制的に座らされているのは、艶やかな柑子の色(オレンジ色)をした巻き気の大層な美女である。
 リューシャと呼ばれた彼女は、正直どうとも反応できず、夏の空の色をした瞳を伏せ気味にする。
 その特異な色彩をとってもそうだが、美女の正体は風の精霊――奔放を性とし自由と開放の象徴となる風精(ふうせい)である。
 しかし本来ならばその性のせいで、最も人間の言うことを聞かないはずであるのにも関わらず明らかに困りきった様子で言葉を濁す風精に、しかしそんなことに構い立てせず、オーリアは悔し涙を浮かべて尚もまくし立てた。

「いいかっ、我が身はなにものにも束縛されぬ筈なのだ! 何故ならそれが、風というものの常套だろう!?」
「はぁ、まぁ。 定義から申せば確かに、風はどの法にも束縛されない第六番目の魔術元素ですわね。オーリアは、その象徴な訳ですから……まぁ、はい」
「だろう! それを我に教えたのは誰だ!!?」
「……わたくしが考え得る限りでは、風巫女の教育を受け持っていたのは、………………ヴェルネートのおじ様でしょうねぇ」
(あぁ、今日もあのいかつい顔歪めて困ってたんでしょうねおじ様……)
 そんなことを考えつつであるから、どれだけ取り繕おうがどうしようもなしに曖昧な響きで――しかも半ば渋々と言った調子で返答をする。
 だが当然ながら、巫女姫はそんな反応に不満げだ。リューシャを半ば睨みつつも、飽和し掛ける思いを吐き出すのを優先させたのだろう。 彼女はバン、と派手に机に両手を打ちつければ、息せき切ってぐいと細い身体を乗り出した。
「そう、そうだろうっ!! ならば、ならば何故に貴奴(きやつ)が我を戒めおるのだー!!!」
 先ほどからばんばん叩かれ続けている哀れな机を挟んで椅子に座るリューシャは、さり気なく――巧妙に視線を反らした。
(失礼ながら、暴れるからです……なーんて、言えたらすっごい楽なんだけど)
 自由気侭を性とする風精の内心などこんなものなのではあるが、面(ツラ)には出さない。少なくとも、この幼い風巫女の前では。
 それは絶対の盟約の相手であることも一因だが、それ以上に……今だって充分に傷付いている彼女をこれ以上痛め付けたとて、利がないどころか不利益だらけだからである。
(何より、後味悪いし)
 ――オーリアが必死で頑張っていることは、風の精霊達は重々承知していた。
(人間の言う“巫女姫”がどんな逸材か知らないけど、オーリアは基本的なことはやってるのよ)
 元よりリューシャは、人間が嫌いだ。
 あんな愚かな生物に精霊族が隷属しているような形になっていることこそ、そもそも気に入らない。 だから彼女が多少、人族に対して差別的なのは致し方のないことだ。
 その土台も手伝い、リューシャは今の風巫女に概ねのところの満足はしていた。 何せ、少なくとも彼女は――この風精の「教育」の結果だが――精霊に対して敬意を持っている。

 そうしてつい、風精が考えに没頭し黙り込んだが故の静寂に、溢れて止まらない子供らしい激情を、これ以上塞き止めることができなくなったのだろう。
 終いに拗ねも手伝ってぐずぐずと泣き出す風巫女を、そのことにはたと気付いたリューシャが小さく苦笑を浮かべ、ふわりと浮かび上がった勢いのまま、極自然なさまで小さな頭を抱き締めた。
 それすら、いつものこと。
 今の彼女を庇護するべき人間は、誰もいないから。
 ならば必然、愚鈍で心の機微に疎い人間に代わり、盟約者である風精達が彼女の庇護者代わりとなるしかないのである。
(人間って、ほんと馬鹿)
 心の内に毒づきつつ、頼りない子供の熱を擬似の身体で一杯に受けとめ、風精は密かに溜息を吐いた。
(オーリアは風巫女だけど、たったの12歳じゃない。ガキよガキ。そこら辺のまだ無垢で無邪気な鼻ったれと一緒よ)

 世界の理に認められないとは、重々理解している。それでも。
 全てに背を向けることを、今は望んでいる。 それは風巫女の為ではなくただの自己満足にも似たものだが、結果が同じならばそれでいい。
 欺瞞と称されようが、リューシャは構い立てしない。
「――辛いことは、堪えてはいけませんよ。辛かったらいつでもわたくしどもを招いてください? 精神誠意、受け止めてみせましょう」
 このガキを、盟約云々を抜きで、存分に甘やかしたいのである。
 そうでなくともこの先に待つ運命と義務は、熟考するまでもなく、人間などという惰弱で卑小な存在如きが負うにはとうてい似つかわしくないほどに重いものなのだから。





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